エピローグ~きのこ漫談と茸師の部屋について

事の発端はこうだ。

朝山歩しているコースにいくつのきのこがあるのか?

という単純な問いからだった。最初は非可食問わず手あたり次第に写真に収めては判別に勤しむ日々だった。元来の写真欲さることながら、それがある時期から可食なきのこが多いことに気付き、狩猟欲をも刺激された。きのこが発生し、衰退するまでの時間(日)は早いもので一日も満たない。それが毎日代わる代わる登場するきのこ達に対し、気が短く飽き性の私にとっては波長の合うリズムだった。

朝山歩する中で、ある程度の判別がつくようになり、こう考えた。

きのこは決められた時期に決められた順番で発生するのではないか?

きのこにはそれぞれ役割があって、両生類の予定運命図みたいな感じで決定運命論的に四季の森林生態系に組み込まれているというダーウィニズムの結果であると

これを証明するにはどうすればいいか?それにそもそも証明しようとしてどうする?という根本的な視点もある。

学問研究としての道は過去に捨てたはずなのだが、どうしたものか。早い話が自分自身に納得させるだけの取組と結論を得たいのだ。

ここでハンターとしての片鱗が顔を出す。

可食なきのこはいくつ存在するのか?それが仮に世間的に言われる可食なきのこの種類と比較した場合はどうなのか?

またはこうも考えた。

森林生態系の豊かさのインデックスを樹種数やその他諸々のみならず、きのこの数でも判定出来たら面白いのではないか?と

これで目的は決まった。

『可食なきのこを日々ピックアップし、記録すること』

日々の記録と言っても、写真を撮って、(あくまで自分用に)種を判別するだけ。毎日収穫物を得て、晩飯に添えるだけでも良かった。ただ、それだけでは何か物足りないものを感じてもいた。そう、肝心の表現方法ついて。

数々の疑問を自分の中で消化・昇華したい。きのこ研究者ではないけど、研究者っぽくしたい。今更ペーパーを書くなんてことも出来ないし、したくもない。けど、何かを創作したい。そんな相矛盾する願望の狭間で産み出されたのがきのこ漫談と茸師の部屋という連続短説話法である。口語調で言いたいことだけを言い切る。

これには自分でも驚いている。今までそれほど接点がなかった分野を潜在的に意識していたことを。こんなにも影響を受けていたものが多々あったことを。

遅ればせながら、モチーフになった方々に感謝の意を。ひょんな思い付きから大変な方々を選んでしまったなあという思いと、もうやってしまったからしゃあないかという諦観の念がないまぜに、この試みが何かの触媒となればそれもまた一興ということで。