千葉県流山市-上京物語

時は遡る200x年代

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都内で就職するため、上京することになった。

勤務・出社時間等はフレックス制が導入されていたので、朝の通勤ラッシュのおしくらまんじゅうを毎日経験しなくても済むという考えの元、

”どこに棲もうか?” 会社までD2Dで1時間以内、山海川に近い所で静かな場所という条件で二つの候補が浮かんだ。

神奈川県鎌倉市そして移住することになった千葉県流山市

下見で賃貸物件と街を徘徊してここにしようと思った。

”都心から一番近い森のまち” といううたい文句もあった。

決めては家賃が安いし、当時の流山市(正確にはTXおおたかの森とかセントラルパーク界隈)はお世辞にも栄えている感じではなく、これから発展していく街であって、面白みもあった。

それを証拠に借りたアパートの一室は築3年以内にもかかわらず、両隣は私が住んでいた時は空き部屋だった(まあ、これは駅から徒歩約20分かかるからかもしれないが)。

本当にとても静かだった。

小高い丘と山に挟まれていて、江戸川に近かった。

アパート横には公園があって、夜になると部屋から溢れた光でカブトムシなどの虫がわんさか押し寄せていたぐらいだ。思わぬライトトラップ

夏になると、流山江戸屋うなぎ店でうな重を食べ、アパートのベランダから三郷・流山花火大会を見ながら一杯やるのが楽しみだった。

思い返せば、この時もよく歩いていた。江戸川と公園の散策路及び駅までのコース

敢えてレトロな流山鉄道に乗って出かけるのも好きだった(中刷り広告がものすごいローカル臭)。

出張して近くまで行くと、少し立ち寄って街の変遷を感じるのも楽しみ

小鮎釣り

本日も投網を打つべく、琵琶湖岸へ

だだし、波打ち強く、濁っていて透明ではなかったので、スルー

折角来たので、釣り人の反応を観察

一人だけコンスタンスに釣りあげている方がいたので、仕掛けを拝見

手竿の浮き仕掛でコマセカゴ、サビキは一本針のよう

朝活と資本主義

時間割

朝活を続けていて、どう感じたのか。

夜早く寝て、次の朝活が淡々と習慣化していく

朝活が(私的)人的資本の効率化と浪費の予防

朝にキノコ狩りをするようになると、なんか一気に集中力が増す。

何気に時間を気にせず起きて朝活することがとても幸せに感じる。

細かいことではあるが、youtube動画の字幕を入れないようにした。

時短(視聴者にはご不便をおかけするが)というのもあるが、字幕が入ると、サムネイル表示にテキストが写り込んで見た目的に美しくないと感じたから。

あと個人的にまとめ動画を作成するときに、いらねーって思った。

今日の晩飯

アナグマ脂と栃餅の月見うどん(天然シイタケの出汁)

漁猟のライフスタイル-例として

朝の漁を終えたら森の猟へー バブル期に世界を渡り歩いた東京っ子が行きついた、自然と人とつながる生き方

この記事いいですね。

一日の漁猟のライフスタイルとしてはこれしかないだろう(あるいは逆)という生き方(朝:漁、昼夕:猟)

私とは違い、漁師から猟師への歩み方がいいのかもしれません。

どっちを優先するかという問題ではあるんですが、

私の場合、朝の漁と言えば、午前2時とか3時始まりだったので、出漁終えて昼飯食ったら、雑用ぐらいで他にがっつり何かやろうという気にはとてもならなかったです。じゃあ、朝は猟をして、夕方から船に乗るという選択肢もなくはなかったんですが、夕方から漁をするという期間は、秋頃の一か月間ぐらいしかなかったんですよね。それと港からアクセスしやすい山(かつ獣がたくさんいる)と猟友会の存在も調べてはいたんですが、どっちつかずになってしまって・・・

この場合だと、

朝?の定置網漁が決まった時間で比較的動けるので、その後の空き時間をコントロールしやすいのがいい。

くくり罠を使用されているようだが、有害駆除も箱罠とかであれば、多少の融通が利きやすい(毎日とか朝に必ず見回りしろとか言われなければ)

朝の漁を終えたら森の猟へー バブル期に世界を渡り歩いた東京っ子が行きついた、自然と人とつながる生き方

東京から約100キロ離れた千葉県館山市は、近海を流れる黒潮の影響で漁業が盛んだ。4月中旬の早朝、「栄の浦漁港」で水揚げ作業が始まっていた。定置網漁の船から下りた小林圭(54)は、慣れた手つきでイサキ、タカベなどの魚を運ぶ。「今日は少なめだ」。同僚たちと仕分けに汗を流す。
定置網漁でとった魚の水揚げ作業をする小林圭さん=千葉県館山市で

定置網漁でとった魚の水揚げ作業をする小林圭さん=千葉県館山市で

 小林は8年前に東京から館山に移住。地元の水産会社で働く。館山には中学時代から父に連れられ、スキューバダイビングによく来ていた。今もサーフィン、釣り、シーカヤックなどのマリンスポーツを楽しむ。
 館山沖は昔からブリ、カンパチなどもよくとれる。そんな海で近年、異変が起きている。漁獲量が減り、魚の種類も変わってきた。温暖化や潮流の変化が一因とされ、小林は「最近は南方の海で生息していたはずのシイラやサメなども目立つ」と話す。

◆温暖化で漁獲量3割減も、「廃棄」魚を商品化へ

 千葉県の大型・小型定置網漁業の2020年漁獲量は計7900トン。10年前と比べて3割ほど減った。サメなど需要の少ない魚やサイズの小さい魚もよくかかるが、多くは未利用魚として廃棄されていた。
 小林は「このままでは漁業が衰退する一方だ」と昨年11月、知人や地元住民とNPO法人「AWA369」を設立。未利用魚の商品開発を進める。これまでサメを使ったかまぼこや、小さいイワシなどを用いた調味料「魚醤ぎょしょう」を試作。魚のすり身団子「フィッシュボール」も、ゆくゆくは市内の店や周辺のキャンプ場で提供したいという。「魚をとるだけでなく商品化して生産性を上げれば、雇用を増やすことにもつながる」
 館山で漁師になるまでの半生は、仕事や住む土地も移り変わってきた。

◆世界を股にアテンド、飲食業経営も震災を機に…

 東京都中野区出身で、高校卒業後にニューヨークへ留学。語学学校に半年ほど通うが、「遊ぶことが楽しくなった」と自主退学する。当時の日本はバブル経済のまっただ中。海外旅行する日本人が増えていた。小林は、日本人旅行者に観光スポットやレストランを紹介するアテンドの仕事を始めた。米国から東南アジア、インド、ヨーロッパを転々とし、アテンドで生計を立てて20代を過ごす。
 30歳で帰国し、東京都内で防災設備の販売会社に就職。外食やお酒が好きで飲み歩くうち、飲食業にも興味を抱く。会社勤めのかたわら都内でラーメン店や、フランス料理を出すバーを経営するようになった。
 40代で脱サラし、飲食業に専念。「常連客を増やすため、付き合いで毎日のように飲酒していた」。やりがいは感じていたものの人間関係のストレスはあり、年齢とともに体もつらくなってきた。休日に息抜きで訪れていた館山と、東京での「2拠点生活」を始めた。
 さらに移住へ背中を押したのは、2011年3月の東日本大震災。銀座で買い物中に大きな揺れに襲われ、「都会でひとたび大災害が起きれば何もできない」と感じた。店を他人に譲り、恋人と館山に移住した後、結婚した。

◆地域で暮らすために必要なこと

 小林は朝の漁を終えると、森へ向かう。雑草の伸びた茂みや獣道が、もうひとつの「職場」だ。
 昨年に狩猟免許を取り、「くくりわな」の猟を始めた。イノシシなどが通った痕跡の近くに穴を掘り、ワイヤの輪でわなを仕掛ける。獣が穴に足を落とせば、ワイヤが巻き付いて逃げられなくなる。これまでアナグマや、100キロを超すイノシシもかかった。
小林さんが仕掛けたわなで捕らえたイノシシ(本人提供)

小林さんが仕掛けたわなで捕らえたイノシシ(本人提供)

 捕らえた獲物は別の猟師が銃で仕留め、小林はナイフで血を抜く。自ら解体し、食べる。アナグマの肉は、今まで味わったことのない脂のうまみを感じた。ただ季節や個体によって、脂の量や肉の硬さは違う。「野生の獣肉には均一性がない」と知った。大きな獣を殺すのは、決して気持ちのいいものではない。それでも「地域で暮らすために、やらなければしょうがない面はある」と語る。
 館山の集落を歩けば、あちこちに耕作放棄地を見かける。獣が人の住む地域に出没し、田畑を荒らしてきた。市内では2021年度に11ヘクタール超、野菜など87トンの被害が出た。被害額は2700万円を超え、千葉県内の市町村では最悪だった。
 小林が猟を始めたのは、猟師の少ないことに加えて「多くの農家が獣害で困っているのを見た。移住した自分が地域になじみ、受け入れてもらうためにもやってみようと考えた」からだ。
 漁師と猟師の掛け持ちは、館山の自然と向き合ううちに選んだ。収入は主に漁の仕事から得るものの、東京で暮らした当時より減った。その半面、魚や肉は自分でとり、野菜は近所の農家からもらえる。「東京は家賃や駐車場代などが最低でも20万円はかかっていた。それが館山では半分ほどで済む。生活費はそれほどかからない」
狩猟で使う、くくりわなについて説明する小林さん=千葉県館山市で

狩猟で使う、くくりわなについて説明する小林さん=千葉県館山市で

 移住してみると、1次産業の衰退だけではない、過疎の現実も目の当たりにした。空き家が少なくなく、子どもを見かけることはまれだ。小林は地元住民から漁や猟を学び、消防団にも入った。自分と同じように移住した人たちとも知り合い、「いろいろな人が自然と集まり、コミュニティーのようなつながりができればいい」と考えるようになった。

◆コロナ禍で進んだリモート、移住…大切なことは

 近年、過疎に悩む地方自治体は競うように移住者を募集している。コロナ禍の影響で、移住に興味を持つ人も増えている。総務省の調べでは、21年度に自治体の窓口などに寄せられた移住に関する相談は約32万4000件で、15年度(約14万2000件)の2倍超に。コロナ禍やリモートワークの普及も一因とされる。
 「どこで暮らすか」を問い直す人が少なくないなか、小林は、実際に移住しても地域になじめず戻る人もいると指摘。「館山に限らず、移住するなら地元住民との関係をつくることは大切。どこで暮らすにしても1人では生きていけないからだ」と話す。
 さまざまな国で暮らして働いた経験から、お金をかせぐだけなら東京にいたほうがいいかもしれないとも思う。だが、「自然豊かな館山は、自分には素晴らしい宝があるように見える。今後は、若者の定住につながるような活動ができるといい。先の見えにくい時代だが、不安ばかり言っても仕方ない」と前を向く。
 NPO活動で空き家を補修し、貸し出す計画も進めている。活動を通じて市長と知り合い、行政とのつながりもできつつある。「外から来た自分と行政の人々とは、地域の将来を考える視点で重なる部分もある」。移り変わる人生で関わった「まちづくり」に、今はやりがいを見いだしている。(中山岳、文中敬称略)

◆デスクメモ

 最近はホームセンターに鳥獣用の電気柵や箱わなが並んでいる所もある。減っていく人口と入れ替わるように出没する野生動物は、地方共通の悩みの種。負担を分かち合おうと、猟師を始めた小林さんの選択に納得する。海と山で地元に溶け込み、地場の産業で生きていく二刀流だ。(本)=おわり
引用:https://www.tokyo-np.co.jp/article/248370