別れは夏の太陽が煌めく日だった。
大学を卒業した街で同じく、又も新たな門出を迎えることになった。
親方から「何かあったら、○○水産を宣伝してや」「最後くらい、○○(番頭)に挨拶せえよ」そう言われ、下宿先を後にした。
何か清々しさがあった。
あの日、山/海の”りょうし”をやろうと決意した日から数年がたった。
これからは自分の力で”りょうし”像を作っていかないといけない
この時、あらたな目標を見据えていたが、それはまた別の話・・・
Yさんは会社とか組合では一目置かれる存在だった。
私は時間を守ることに関して少しルーズなところがあり、どうしてもばらつくことがあったのだが、Yさんはある決まった時間に来ては入念に出漁の準備をする人だった。
船上では、その一挙手一投足に目を配った。
漁に対しても珍しく合理的な人で、一度漁に出たら粘りたくなるが、いい意味で見切り・諦めが恐ろしく早い。時間を無駄にしない。
知的な感じで、情報通でもあった。
不漁で人手がいらない時期が来ると、Yさんは来なくなった。
”あの人は何してはるんですか?”
”あー網を作る手伝いしてるんよ”
”じゃあ、副業がありなんですか?”
”あー何生いうよる” ”あいつは特別や”
そんな感じだった。
本来3人でやる仕事を2人で任された時、本気のYさんの仕事ぶりは凄いの一言だった。
珍しく身の上話をする時があり、聞いてみた。
”なんか網仕事とか動きが上手ですけど、若い時何かやってはったんですか?”
”大学では陸上やってたなあ、海の仕事はそれからや”
なんで、そんな人が漁師の世界に?深くは聞かなかった。
私は猟師時代からある副業をしていた。その時間が欲しかった。
それがきっかけであるトラブルが起きた。
出漁しない時の仕事を陸仕事と言っていたが、どうしても仕事の時間を変更してもらいたかった。
”あー何いうとんねん?” ”そんなん許されるわけないやろ”
その時は早めに作業を終わらせたかった。
一人で作業していると、Yさんも早めに来ていた。
”何やっとんにゃ、それはこうするんや” 多くは語らなかったが、笑っていたのが印象的だった。
その後、なんかもやもやする時期を過ごしたのを覚えている。
不漁で満足に漁ができない、生活が向上する見通しもない、しかし、ルールはルールと
なんか陸にあがった魚みたいな気持ちだった。
日没後の船からみる夜景が特別だった。
私にとって、大漁かついろいろな魚種が網にかかるのが最も興奮する時であり、肉体的・精神的な疲れを忘れさせる唯一の瞬間だった。
年末に向かって、魚の活性が下がると、シーズン終了。
漁師の忘年会は牛肉(ステーキ)だった。
年明けの冬の漁は寒さに堪えた。
ただでさえ、寒さに弱い私が何枚着込んだことか。
ある漁が始まると、豊漁を願い、香川県の金刀比羅宮にお参り。
これは意外だったのが、休漁期間が長いこと。
一か月まるまる休みになることもある。
じゃあ、その間は何しているかというと、当然無給なので、他所に働きに行くか、ぷらぷらして遊んでいるか。
漁に出れない、出ていない時は何をするか
浜の清掃、船&網のメンテナンス、組合の行事参加とかいろいろ
休漁期間、休漁日、風が悪い日と出漁している日の方が少ないくらい
それに追い打ちをかけるような往年の不漁
”そりゃ、獲れる時にとるわな”が、率直の感想である。
とれすぎても魚価が値崩れする可能性があるが、獲らない事には始まらない。
海のガードマンをしている方が稼げるかもとジョークが飛ぶ。
世間のニーズと魚種の旬がマッチするタイミングが一番いい。
消費地候補のメインは海外は中国、国内は東京、大阪の順で選別された。
地元が消費地の候補に上がらないのが悲しい。
大漁が期待できる日を選べたら、さぞかしいいだろうか。
自然現象と社会の板挟みで、思っていたほど仕事で漁をすることは自由度がないなあと思った。自分で船を持つとそうでもないのかもしれないが。船上ではどうしても人間関係が濃くなるし、不漁だとなおさらそっちの方向の話題が多くなる。
そんな中でも人間関係で楽しみを見出せたのが、Yさんとの出会いだった。
同じ街でも所変われば、視点も変わる。こんな場所に港があったのかと
中途採用の9月から船に乗ることになった。
その時は、夕方日暮れから漁に出て、真夜中には終了する巻き網漁に出ていた。
体験した漁とはまた別の漁で、肉体的にとてもきつかった漁法。
港から出て、魚探に反応があれば、ものの10分ぐらいでいきなりやりだす。
最初は網で囲った魚をでかいタモで氷間に放り込む作業をする(イケマとかもいうが)
それが終わったら、網の回収、これを人力でやるからとてもしんどい。
”まあ、最初は体も慣れてへんから、そんなもんやろ”
”そんなことよりも、もやいをマスターせんとな”
もやい?
もやい結びとはちがうタツにかけるロープテクニックである。
船の用語とか方言なのかと思うくらいにいろいろ名称があって、それを覚えるのに苦労した。
ちょっとした休憩とか、漁の合間を見つけてはもやいを練習した。
体の向き、利き手関係なく、迅速かつ安全にできるかどうかを
ちょっとしたロープの持ち方の違いで指を挟んだりしたら、軽く指が飛ぶと冗談交じりに言われたが、ほんとに油断してるとやばい。波の揺れ、船の重さ、もろもろいかなる条件でも出来るようにと
この頃は休みの日には小型船で刺し網漁にも出ていた。
これは2人だけのこじんまりとした漁だったが、すべてが少人数で完結できるからいいなと思っていた。
”有害駆除の捕殺員”を辞めて、またもやぶらぶらしていた。
海の漁師・・・海との関わりについてシリーズで触れたことではあるが、港巡りの旅を継続していた。
それはある目的のため、会社として漁をしている人らが直接求人募集を兼ねて集団面接会場に集合するというイベントが予定されていたので、それまでに少しでも現場の雰囲気を下見しておきたかった。
これまた、猟師の集まりさながら、それよりも腕っぷしと日焼けをした人らの集まりだった。
遠洋にするか、近海にするか。近海でも日帰りか、数日沖に停泊か。
近海・日帰りの一択であった。
二つほど目を付けていたブースで話を聞いた。
”興味があるなら、一度漁の体験でもせえへんか?”
ある会社と連絡をした。
午前3時に出港し、10時に網揚げ、12時には終了した。漁自体は不漁の日だったので、暇だったのだが、何もわからない私はそんなことも露知らず
”のんびりしてて、いいなあ”と
その後、昼のランチの食堂で今後同じ船に乗るかもしれない人たちと飯を食った。
魚のフライ定食だったと思うが、とにかくうまい!
これが毎日食えるのか
”あのー、お世話になろうかと思うんですが”
”何人か面接に来てたから、いろいろ判断するし、また連絡するわ”
その後、”いつから来れるんや”という連絡がきて、あー採用されたんだと
またもやここで、裏事情。補欠採用。今回もこのパターンかい!
船に乗る場所は奇しくも大学生活を過ごした同じ街だった。
別の仕事とは飼養動物の管理つまり、動物園の飼育員みたいなもので、その施設の管理を任された。
生物を殺すこと、生物を活かすこと、両方の仕事をやることになったのだ。
二年目は個人的に至高の一年だった。
生物の観察・研究を思う存分堪能することができた。
ちょっとした事をすぐ試せるいい環境であった。
この頃から、農地に鳥獣の侵入を防ぐ防護柵の設置が施工され始めた。
これに伴い、獣の出現ルートが変化し始めた。
一年目のような何でもありな環境に出現するということは珍しくなったし、檻・罠による捕獲圧の高まりに伴い、それの対処に時間を要するようになった。
ある意味、鳥獣被害対策の安定期に向かいつつあった。
それと同時に、ここまで引っ張ってくれた上司が異動となった。
それは私の”有害駆除の捕殺員”としての仕事の下降曲線を辿ることを意味していた。
趣味で狩猟をするという事の方がはるかにハードルが高く、計画は頓挫した。
免許取得はいいが、狩猟登録含めその他もろもろの手続きが煩雑で、思いの外時間がかかる。
鉄砲所持をするにも”趣味で”というよりも”仕事で”という方が警察に納得されやすい
この時は鉄砲所持は諦め、別の事を考えていた。
暗黙の了解でどのエリアがどの猟友会の縄張りなのかが、閉鎖的で外からはまずわからない。
銃猟をするもの、わな猟をするもの とは ちょっと相いれない。
地元の山を歩いてみた。
獣の気配が薄いし、鳥獣保護区になっているエリアも多い。
”こりゃ、ダメかな”
地元で狩猟をすることを諦めかけていた。
そんな折に仕事の方で任期の延長が決まった。
というより、新しい役職が与えられ、そのポジションに就くことになった。
不幸中の幸い、渡りに船とはこのこと。
新しい役職では、別の仕事(施設管理)を含む土日祝日の現場対応もすることになった。施設管理も面白そうだし、休みもなくなる可能性があるが、それも嫌ではなかった。むしろそれを望んでいた節があった。
”仕事があるから、遊びに行けないわ”という言い訳はもちろん、”遊ぶことよりもたのしい仕事があるから”というのが本音だった。
”有害駆除の捕殺員”は二年目に突入した。
狩猟免許を取得するにはそれほど時間はかからなかった。
強いて言えば、医師の診断書ぐらいで、最初の受付で少し戸惑われるぐらい。
上司に免状を見せて、”とってきました”
”おーそうか、じゃあこの辺りは誰もやってないから、好きに掛けてみたらええわ”
やった!
自分が仕掛けた罠の見回りも仕事になった。
それらしい獣道に括り罠を仕掛けた。その時はすぐにはかからなかったが、2週間後ぐらいに中サイズのイノシシがかかっていた。
うおおおおー
この時の興奮は今でも忘れない。
散々今まで処理してきたはずなのに、この時は興奮で手足が震えた。
はあ、はあ、はあ、ついにやったぞ。念願の捕獲と止めさし。
猟師としての一歩。感無量である。
任期満了までにどれだけ経験を積めるか、それが勝負だった。
それからというのも、関わりのある猟友会のメンバーと罠猟についての話で交流が深まった。現役ハンターと同じ土俵に上がった気がした。
今思うといい時代だった。各支部・各エリア担当の猟友会メンバーと交流出来たことを。師匠という存在はいなかったが、いろんな人のやり方を参考にしながら独自の捕殺スタイルが形成されたこと。いい大人が本業傍ら狩猟に傾ける情熱。生き方や人生の楽しみ方をこの期間に教わった気がする。誰しも仕事上の愚痴や気に食わない事はあったと思うが、それを語るときも真剣であり、本当に狩猟が好きなんだというのがわかる。
一つのエピソードがある。齢80歳近くになる老ハンター。歩くのもままならず、杖を突いて山に行くのだが、罠をセットするには人一倍も時間がかかる。捕獲しても自分で仕留めることができないから、よく手伝うことがあったが、それでも見回りはできるからとその任務を放棄しなかった。縄張りを他の人に荒らされたくないというのもあるだろうが、
”わしゃ、狩猟がしたくて、ここに引っ越してきんだ、例え歩けなくなっても、飼うている犬に連れられてでも山に行ったるわ”
実際の見回りでは、犬の散歩がてら、犬に連れていってもらっていたようだ。
普通の用事であいさつするときはただの老人にしか見えないが、獲物がかかった時の反応は生気を取り戻したかのような目の輝きを放った。
狩猟というものがこの人の生きる活力なのだ。
そんなものが私にはあるだろうか(今はあると断言できる)。
もう一つのエピソードは影響を多大に受けた人物のO氏。
本業の事を聞くと、超多忙な感じの人であるが、緊急対応が必要な場面ではほとんど欠席をすることがなかった。動かしているものを考えると、大した金額を貰う仕事でもないし、そっちのけでやる事のメリットもないのにと思っていたのだが、狩猟の話をしているときは忙しさが紛れるのか本当に楽しそうに話す人だった。
ある場面では、全エリアの猟友会メンバーが一堂に会する研修会があった。もうそこに集まるメンツの濃いこと。その中でも若くして支部をまとめている姿は貫禄があった。
この人がいるから、後の人生で挑戦しようと思ったことがいくつもあった。
そんな貴重な時間にもタイムリミットが迫っている。魔法が解けるのをただ待つわけにはいかない。
もう一つのプラン、地元で趣味の狩猟をするというのを検討しなければいけない。